全ては雨がつれて来る
残像 憂鬱 痛み 絶望
それら全て
夜明け前
目の前の扉が叩かれたような気がして、ふと顔をあげた。
半徹夜続きの朦朧とした意識では、空耳だったのかも知れない。
あるいは、そう願う故の幻聴なのかも。
昼過ぎから降り出した雨は、深夜を回ろうかという時刻になっても
未だ止むことなく、それどころか一層に激しくなるばかりだった。
陰鬱な気分だ。
ロイ・マスタングは腰掛けた革張りの椅子の背に、鬱蒼と体重をかけた。
顎先にかかろうかという高さまで詰まれた書類を眺めているだけでも気が滅入ってくると言うのに
さらに、鳴り止まない雨音が拍車をかける。
雨は好きではない。
司令部の前を走る道、
舗装工事の曖昧なそれは、いつもそうなるように
今頃用水路から溢れ出た水で小さな泥の川になっているだろう。
今日は雨足も強い。
司令部置きの簡易傘では、きっとどれほどの意味も無く自宅に着く前に使い物にならなくなる。
ロイは小さく溜息を付くと、手にしていたペンを机上に転がした。
今日中をメドに終わらせようと取り組んできた重要書類の処理も、どうでも良くなってきた。
今夜もこのまま司令部の仮眠室に泊まるのが妥当な線だろう。
あるいは、執務室内にあるソファを寝台がわりにしても構わない。
司令部の動き出す朝までの短い休息を取るに当たり
古ぼけた革張りのソファと、仮眠室の埃の匂いが篭る固いベッドとでは
それ程寝心地は変わらないからだ。
汗と硝煙と、鉛の焦げる匂いが充満するテント
そして腐臭と血痕の付着したカビ臭い毛布。
それらに比べたらなんと贅沢なものか。
なにか苦いようなものが胸内にせり上がり、ロイは目を伏せた。
この音がいけない。
嫌な事ばかりを思い出す。
ごまかすつもりも、忘れるつもりも無い。
それでも前だけを見つめていなければ進めない
扉が鳴った。
今度は空耳ではない、と思う間にも目の前の分厚いドアが薄く開かれる。
その透き間から小さく濡れそぼったものが滑り込んだ。
見慣れた赤い色
雨に濡れた分、それは濃く色付き
小柄な体躯の輪郭に張り付くようにしてその存在を印象づける。
「…鋼の?」
「こんばんは、大佐」
冷えたのか、やや青ざめた顔色で
皮肉めいた笑みを浮かべる少年。
それは確かに鋼の二つ名を持つ人物
エドワード=エルリックその人だった。
「驚いた。君が来てくれるといい、と思っていたんだよ」
薄い笑みを浮かべ唇に乗せたセリフに、エドワードは少年らしく整った眉を僅かに寄せる。
「…よくそんなセリフがすらすら吐けるな」
ロイは、そんな様子を見て苦笑した。
彼はいつも怒っているか、不機嫌だ。
その瞳の中にはいつも小さな焔が灯っている。
エドワードの普通の少年とは違うところがいい。
皮肉の応酬だけでも、その反応は楽しくつい必要以上に構ってしまいたくなる。
子供らしい部分とその身に合わない大人の部分が、アンバランスで面白い。
ロイが意図的に彼の機嫌を損なわせている事もあるが
きっとそれだけが原因では無いだろう、いつも張り詰めた目をしている。
今も自分を睨み据えるその瞳は、外敵から身を守ろうと全身の毛を逆立てている獣のようだ。
彼も前だけを見ている。
そうしなければいけない理由が彼にもあるからだ。
ロイは唇を歪ませた。
笑おうとして途中でやめたような、複雑な表情が浮かぶ。
「本心なんだがね」
「ますます胡散臭え」
エドワードは水を吸ったフードを鬱陶しげに払うと、ロイの座る椅子に近づいた。
革張りのそれに深く腰かけ、両手を軽く組むその姿はロイお決まりのポーズだ。
不思議な威圧感がある、とエドワードは思う。
生来、他人の顔の美醜に頓着することは少なく
かつ同性ともなると正直良くわからないというのが本音だが
それでもロイの顔はといえば、整っている部類だろうと思う。
年のわりに、童顔ではあるが雰囲気だけを見ると実年齢より上にも見えるかもしれない。
冷徹な印象という訳でもなく、かといって柔和といえるほどの親しみやすさも無い。
二つ名は焔。
この若年で大佐の地位を得るほどに有能であり
一見すると完璧な人種に見える。
しかし完璧な人間なんて居ない。
きっと、この男は弱みを弱みと見せない術を知っているのだろう。
こういう底の全く見えないタイプは苦手だ。
苦手な筈なのに。
机を回って、悠然と構えるロイとの距離まではあと半歩
相手が腰掛けているため、自然エドワードが彼を見下ろす角度になる。
「随分と濡れている様だが。傘は嫌いかね」
ますます眉根を寄せて険しい視線を向けるエドワードを気にする風も無く、
ロイは手を伸ばした。水気を含んだ布地に指が触れる。
上着の合わせを引かれるままに、エドワードは身体を傾けた。
バランスを取るため背凭れに手を付く。
「冷たいな」
上着を掴んだ手はそのままにロイは反対側の手で、エドワードの頬を撫ぜた。
自分の頬を包み込み余る大人の大きな手が癪だ。
ロイは自然な仕草で壊れ物を扱うように触れる。
いつもこうだ。
その不遜な口調とは裏腹に、恭しいとさえ言える仕草で自分に触れるのだ。
だからつい振り払うことを躊躇ってしまう。
その手があまりにもやさしく温かいから
勘違いをしそうになる。
勘違いならそれでもいい。
例え本当の事でなくても
そのことを自分が自覚しているなら問題無い。
だから自分はここへ来た。
エドワードは抵抗しなかった。
ロイはその事にわずか気を良くすると、
暫し、そのすべらかな頬の感触を楽しんだ。
「あんたの手は熱い」
「それは君が冷えきっているからだよ」
ロイの手のひらから伝わる体温に、
冷えていた頬も次第に緩んでくる。
その頃まで続いた沈黙にエドワードは焦れたように口を開いた
「何をしにきたか聞かないの」
ロイは答えない。
ただいつもの様に胡乱な笑みを浮かべるだけだった。
きっとこの男は見透かしている。
エドワードは乗り上げるように、ロイと椅子との隙間に片膝を進めた。
「雨が嫌いなんだ。」
「私もだよ」
止むことの無い雨音
耳障りなそれ
「さしずめ私は耳栓の代わりかな」
返事はしない。
その言葉が合図だった。
エドワードは湿った重いコートを気にすることなく目の前の広い肩に両腕を回した。
冷たいその雫がじわりと軍服にまで染みてくるのを感じる。
これは早々に剥がねばいけない。
司令部には替えの軍服は置いていないのだ。
これも理由の一つになるだろうか?
「雨もたまには良いものを連れて来てくれる」
執拗な口付けを終え、独り言のように耳元で囁いた声にエドワードがぴくりと反応する。
「…なんだよ、それ」
詰まった吐息を含んだ声に、ロイは満足したように微笑んだ。
濡れて色付いた幼い唇が愛しい。
命の息づく紅い色。
「でも」
一端区切った言葉を、小さく呟く。
「君もいつかきっと私の絶望に変わるよ」
聞き取れなかったのか、エドワードに不可解そうな表情が浮かぶ。
それも一瞬のことだ。
這わせた手の動きで、腕の中の小さな生き物は直ぐに熱に飲まれる。
なんと容易い事ことか。
堪えるように細められた瞼から覗く小さな灯り。
痛々しいような、物悲しいような
年端のいかない子供の持つものではない。
きっとこの目はロイを見ているわけではないだろう。
その瞳に映る自身だけを見ている。
或いは自分も。
唐突に、哀れだと思った。
それがエドワードに対しての感情なのか、自分に対してのものなのか
ロイには分からなかった。
吐き出される吐息の、その甘ったるい響き。
きっと感情は重要でない。
必要なのはこの夜を乗り切る事だけだ。
衝動と 肉欲と 僅かな独占欲
この感覚だけを追う。
降り続く雨も
きっと明け方には止むだろう。
用水路から溢れ出ている泥水もやがて乾いて消える。
だからこの熱も
今は雨音とともに流れてしまえばいいと
そう思った。
夜明けまでは、あと少し。
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