降り積もる書類 
終らない内乱  
繰り返される毎日

代わり映えのしないそれは
確かに我が魂をすり減らしていく。

日常からの脱出の第一歩を踏み出すため、
まず私はそれらを壊す台詞を口にする事にしよう。




escape




「君、賢者の石を諦めないか。私は大総統になる事を止めるから」

私の目の前にいる、平均よりかなり寸法の足りない少年は、
食い入るように読みふけっていた本から顔を上げると、元々大きい目をさらに丸くした。
彼の書物に対する集中力の凄まじさは自他共に認めている事実であり、
些細な横槍にここまで機敏に反応するとは、珍しい。
なかなかにいい反応だ。
私はほくそえむ。
ややあって訝しげな視線がこちらに向けられた。

司令部の飾り気のない窓辺から差し込む夕陽を弾く、その金色の瞳。
わざとやっているのかは解からないが
僅かに小首を傾げたその仕草には、小動物めいたかわいらしさが漂う。
きつく寄せられた眉根が減点対象とも思えたが、
彼の外見の幼さも手伝ってか、それでも十分に愛らしいと表現できた。
子供は生まれながらに、自らをかわいく見せて、母性に訴えかける
生き延びるための手段を備えているらしい事を何かで読んだのを思い出した。
彼にとっては自覚の無い事であろうが、それは確かに事実なのだろうと私は思う。
しかし生憎私は女性ではないので、全てを彼女らに共感できるわけもない。
むしろ、彼の幼さには腹立たしさを覚える事さえある。
彼自身に対してではない。
「幼い」ゆえに認められる特権を、彼が拒否している事への若干の憤りだ。

彼は子供である事のメリットを、その手段を最大限有効に使えばいい、
そして保護されていればいいのに、と考える事がある。
もちろんこれは私のエゴであり、大人の勝手な言い分だ。
彼がそれを望む事は無いだろう。
私はただ、保護欲を満たし、求められていると錯覚したいだけなのかもしれない。

しかしそれなら、それでも良かった。
私は日常から、抜け出したい。




「全てのしがらみを捨てて自由にならないか。君はただの少年に、
 私はただの、何の野望も持たない男になる」



エルリック兄弟が、東方司令部に顔を出したのは3ヶ月ぶりの事。
暫く滞在する、と報告を受けてから、丸2日はたっただろうか。
エルリック兄弟の片割れ、エドワード=エルリックが一人ひょっこりと現れたのだ。
居残りを命じられた学生のように膨大な書類の処理に追われている私を尻目に、
さも当然という顔で気紛れに執務室に居座り、そして気紛れに本棚から文献を引き出しては
延々と読書に没頭している。
何冊か積み上げたそれらには、私個人の持ち物も混じっていた。
私も、れっきとした錬金術師であり研究者だ。
それらの資料は彼の捜し求めているもの、又得意とする分野とはかけ離れたものであったが、
それだけに興味が引かれたのか、丹念に目を通しているようだった。
それは時間を無駄にする事が何より嫌いな彼にとって今やるべき必要な事とは到底思えなかったが、
私はその理由を聞かなかった。
ペンを走らす音、紙の捲れる音
無機質な響きに支配された静かな空間。
彼はただ、同じ室内行う自分の作業だけに没頭していた。
私に構うことなく、ましてや私の仕事を助けてくれるわけではなかったが、
私がそれを不快に思う事はなかった
部屋を刻む時間は確かに同じ速さで流れており、
その空間は私と彼とを飲み込み、規則的な脈を打つひとつの生き物のようだった。

これも僅かな非日常ではあったが、
しかし、まだ足りない。





「そうして、私と一緒にならないか」



私は歌うように、囁いた。
ペンを持つ手を休め、美しい淑女に声をかける時のような
特別の声音を使う。悪戯のような手段だ。
経験によって培われた手管は彼に通用するだろうか。

「何、その笑えない冗談」
剣呑に寄せられた眉の下の双眸からは、戸惑いの色が伺える。
彼は潔く書物から手を離し、埋もれるように掛けていたソファから
僅かに身を起こした。
机を挟んで数歩のその距離。
真意を探ろうとしてか直線的に届くその視線は、なかなかに悪くない。

「そうだな、笑わせようと思って言ったわけではないからな」
私は大げさに肩をすくめる。
「じゃあ、どういう意味だよ」
「さあ、なんとなく。ただ言ってみたくなっただけだ」
「…あんたよく、そんな悪趣味な嘘、しれっと口に出来るよな」

エドワードは露骨に嫌な顔を浮かべる。
唇を尖らせ、眉をしかめた表情はとても彼らしく、子供っぽい。
「口説き文句といってくれたまえよ」
私は背もたれに体重をかけると、軽く手を組んだ。
「こうやって口にすると、まるでおとぎ話みたいだろう?」
「馬鹿じゃねえの。そんなの意味ねーじゃん」
「いや、全くの嘘というわけでもないよ」
私は、彼の視線を避けるように目を伏せた。


「私にもね、背負うべき罪も、野望も捨てて。
 全てを捨てて、ただ一筋の愛に生きたいと思うときもあるんだよ」




降り積もる書類 
終らない内乱  
繰り返される毎日

今日は、昨日と何か違っているだろうか。
私は前に進んでいるのだろうか。

がむしゃらに、この国を駆け上がるうちに
戦場は机上の物へとどんどん遠ざかる
今この時にも流れる血も
いずれそれらは書類上に存在するだけの
記号となり果て
そして膿み
私は忘れてしまうのではないだろうか。

何も変わらないのではないか
そしてこのまま
何処にも辿りつけないのではないだろうか

苛立ち 焦燥 絶望 そして困憊。 


全てを捨てて
違う夢の可能性を見る
そんな瞬間も嘘ではなく、確かにあるのだ。





「少し、疲れてるのかもしれない」

私は、薄く微笑む。
とたん少年に戸惑いの表情が浮んだ。
今の私の姿は、彼の目には随分と弱く映っている事なのだろう。
大人は強いと勘違いしている年頃だ。
どんな事にも傷つかず、臆する事も無い存在になれるのだと。

大人になる事で人はどんどん弱くなっていくことを、この少年はまだ知らない。


「…なに甘えてんだよ、アンタもう立派なオッサンだろ?」
「そうだな…、気が付いたらもうこんなところまで来てしまった」
「らしくない」
「そうかね」
「……」
エドワードは、何事かを言いあぐねるように、瞳を泳がせた。
そして浅く息を吸い込む。
私は、呼吸一つも見逃さないよう彼を見つめる。

「言っとくけど、俺が好きになったのは、馬鹿みたいな途方も無い野望を抱えてる、
それでもへこまない、ロイ・マスタングになんだからな」

それは酷く早口だったが、通りの良い彼の声質のせいか、良く響いた。


「前へ進めよ、立ち止まるアンタになんか何の魅力も無いんだから、な!」

自覚があるのか、喧嘩腰の口調に不釣合いな、羞恥に染まった顔。
強い意思を放つその瞳。
そして私は、遠い日に自ら失った輝きの具現を、彼の中に見る。
これこそが、私が見たかったものなのだと思った。
繰り返す日常に磨り減り、希薄になりそうな現実を。
そして求める未来を引き起こしてくれる光。
懐かしくそして羨望にも似た想いで、私は彼を愛している。

眩しい彼の姿に、私は瞳を和ませた。
「だったら。私はやはり夢を捨てるわけにはいかないな、残念」
やや演技がかった風に息を吐くと、遠慮の無い視線に射抜かれる。
「捨てる気なんか、はなから無いくせに」
「それは、お互い様だな」
「……」
言外に含ませた示唆に気付いたのか、エドワードの表情が深くなる。

私が、彼のために大総統になる夢を捨てられないように、
彼も、私のために賢者の石を諦める事はできない。
そして、だからこそ互いにこれほど惹かれ合う。
そのなんたる矛盾。


たっぷり30秒を数えた沈黙の後、エドワードが小さく溜息をついた。
「…あんた、さあ。本当は甘えたかっただけなんだろ?」
「さあ、それはどうだろうね」
軽い仕草で手を振る。
「なんか、してやられた気分」
本当に俺、趣味悪い、と嫌そうに呟き唇を尖らせた様に、
私は微笑だけで返した。
そして、出来る限りの優しい声で彼を呼ぶ。
「エドワード、こっちにおいで」
「……」
憮然とした表情のまま、それでも私の言葉に珍しく素直に従う姿が愛しい。
近づいた彼の薄い腰に手を回し、私の膝上に乗り上げるように引き寄せた。
慣れた子供の温みと匂いに、僅かな背徳感と、それと相反する堪えようの無い
欲望が膨らむ。
彼の幼さに、手加減をするつもりは無い。
獲物は自らの足で、ここまで来たのだから。
その理由がなんなのか、私は確かめたい。

「今日は私の好きにしていいかな」
「…いつも、してんだろ」
「うんと、甘やかしてくれるね?」
「駄目男」
「どうか私に愛を与えておくれ。そうしないと絶望に潰されて死んでしまうかも」
「言ってろ馬鹿!」

紅潮した頬に唇を寄せた。
とたん私の襟元にしがみ付く小さな手。

いまだ幼い体躯は、成長することへの拒否にも見えるのに
早く大人になりたいと君は言う。

私は叶わぬ願いをかける。

どうか大人になど、ならないでおくれ。
君は私のような大人になってはいけない。


「愛してるよ、エドワード」

輝く金糸をこの指に絡め
呪縛のように囁きかける。


願わくば、いつまでも私の腕の中に。
―叶わない願いを―


君だけは逃げないで。





end.