スノーホワイト(4)






「ただいま〜」
気合の抜けた声とともに、エドワードが扉を開けました。
てれんてれん、と音がしそうなくらいに重い足取りです。
とうとう今日はいつもの半分もノルマがこなせないままに日が暮れてしまったのでした。
それというのも。
「お帰り、エドワード」
瞬時に帰ってくる低くて綺麗な声、そして朗らかに浮かべられた姫の笑顔に、
エドワードは不覚にも心臓が跳ね上がるのを感じます。
(くそ!!ラッセルのあほ!!無駄に意識しちまうだろーが!)
昼間ラッセルに揶揄されたことが頭を回り、エドワードはたっぷり半日は煩悶する羽目に陥ったのです。
ラッセルの言葉が胸に蘇るたび、エドワードは心の中で打ち消すように唱え続けました。

( 彼女とか、あ り え ね え だ ろ !!)

「彼女」、つまりは姫をエドワードの恋人だと勘違いされた事は、彼に予想もしない衝撃を与えたのです。
元来の性質ゆえか、また森の深部で他人と接触を絶って暮らしているためか、
もともとエドワードには、恋愛という分野に対して疎い所がありました。
本人にも多少自覚はあるものの、さすがに自分の恋愛対象に男が入らない事くらいはわかるつもりです。
ましてやあの姫のこと。年齢差・性格の悪さ・とどめに性別を加えて、自分の恋愛対象になりえるとは
エドワードには到底思えません。それなのに、ラッセルのたわいも無い冗談かもしれない
その言葉が耳から離れないのでした。
(こんな変態にハマるわけがない、そしてハマリたくない、何より自分の中の常識を信じたい!!)
想いを猛る斧に託し、エドワードは親の敵のように木々を薙ぎ倒しました。
(何が彼女か!てか女ってなんだよ女って、誰だそれ?!)
(アイツはただの犬!うっとおしいけど、まあ憎めない所もあるただの大型犬!)
(わんわんだ、わんわん!)
(ったく、誤解も甚だしいっての!気持ち悪っ!!おえっ!)
しかしその勢いも長くは持たず、ぐるぐると回りだす思考はエドワードの手の動きを緩慢にするのです。
コントロールのきかない感情に、エドワードはただ混乱するばかりでした。


『エドワード』

ふとした瞬間に意地悪で優しい姫の声が思い出されます。
彼の作るお弁当の、微妙な
だけど、どこか温かい味が口の中に広がる気がしました。

(気持ち悪いから、だから)

―だから
こんなに胸が逸って落ち着かない気分になるんだ。



エドワードは恋をした事がありません。
だから知らなかったのです。

感情はときに常識の外へと走り出す事があるということを。









いつもより、元気の無いように見えるエドワードに姫が不審な顔を浮かべました。
「どうした、顔色が悪いみたいだが?」
「な、なんでもねえって」
額に手を当てようとする姫の手を、軽く振り払うと、エドワードはそそくさと離れます。
まずは、落ち着こう、エドワードは深呼吸をしました。
いつものノリだ、いつもの―

俯いたエドワードの顔を覗き込むように、姫が腰を折りました。
「また拾い食いでもしたかね、ぽんぽんが痛いのか?」
「ぽんぽ…いや、またって何だ!一度もした事ねえだろ!!」
腹を擦ろうと伸ばした手を叩かれ、姫は眉をひそめます。
「うん?だったら、何だ。森の子リスにでも虐められたかね、それとも野うさぎか。
それだけ可愛いと大変だな、森のアイドルの座を巡る争いも穏便には済むまい?」
「誰が小動物に虐められるか!!俺を何だと持ってんだ!」
「それくらい可愛いと褒めているのだよ」
悪びれた様子も無く軽やかに笑う姫に、エドワードはふるふると拳を固めます。
「…俺は今、自分でも吃驚するくらい力があり余ってるぞ、味わってみるか?」
「いやいや、無茶は止めたまえ。君のリーチでは届かないと思うし怪我でもしたら大変だろう?森のアイドルなのに」
「だーれが顕微鏡で覗いてもわからない、超ウルトラミジンコチビかー!!!」

エドワードは声を限りに叫びました。
姫の飄々と優雅な仕草で拳を避ける姿さえ癇に障ります。
馬鹿な事は忘れよう、再確認。
俺はコイツが大嫌いだ。


だから。
「うん、その元気があれば大丈夫だな。夕飯にしようか?」
姫が、ほっとした様に優しい顔を浮かべた事には
気付かなかった事にしよう、そうエドワードは思うのでした。








テーブルの上には、溢れんばかりの料理が並んでいます。
サフランライス、ほくほくのマッシュポテトに山菜サラダ。
肉と野菜を煮込んだポトフは作り立てらしく、ほかほかと湯気を上げていました。
いつもより品数が多い夕食は、どうやらハボック直伝のレシピが役に立ったようです。
「美味しいかい?」
「………ビミョー…」
味は相変わらずのようでしたが。
それでも、食欲を満たすには十分の味ではあるので、エドワードは成長期の少年らしく
もぐもぐと手を休めることなく、姫の作った食事を口に運びました。
姫はその様子を満足げに眺めると、自分も食事に手をつけました。
「うん、美味しい」
「…アンタのこれは才能だよな」
「有難う」
「褒めてねえ!」
姫は、首を傾げました。
「美味しくないか?私はとても美味しいが」
「素ボケかよ…。アンタの自画自賛にはついていけねえ…」
ポテトをもぐもぐと頬張る平和そうな姫の顔を眺め、
エドワードは、そのマイペースぶりに溜息をつきました。
「…なあ、アンタいつまでここにいる気なの?仮にも一国の姫君がさ。
あんたにとって、得になってるってわけでも無さそうなんだけど…」
別に邪魔ってわけじゃないけど、と聞き取れないような小さな声でエドワードは付け足します。
「そんなことはない。毎日がとても新鮮で勉強になってる」
「例えばどんな?」
意外だったのか、瞳を丸くしたエドワードに、姫が満足そうに微笑みかけました。
「食事が美味しい、とか」
「…言ってろよ」
真面目に聞いて損をしたとばかりに、半眼の視線を浴びせるエドワードを尻目に
姫は、食事を終えたフォークを皿の端に置きました。そしていつものように
食後のコーヒーを自分用に、エドワードのために紅茶を一杯用意します。
「誰かと食べる食事がね、こんなに美味しいとは知らなかった」
「だってアンタ姫さんだろ?もっと良い食材で豪勢な食事してたんじゃないの?」
「確かに材料は豊富だったかもしれないな。でも厳つい家臣に囲まれながら一人でとる食事は
どうにも、味気なくてね。それに」
コーヒーを口元に運ぶ手を休めることなく、姫は言いました。
「毒見の終ったあとの食事は冷めていて、あまり美味しくは無かったな」
「どく…?」
穏やかな口調にはとても似合わない単語に、エドワードの声が詰まります。
「私はこれでも第一王位継承者だからね、色々しがらみがあるんだよ。
小さい頃には何度も死にかけたものだが。まあ、そう易々と思い通りになる私でもないしね」
タフにはなったよお陰でね、と世間話を話す様な気安い調子で、コクリとカップの中身を
飲み干す喉をエドワードは声も無く見つめました。
「だから、こうやって誰かと差し向かいでとる暖かい食事は初めてだったが、とても美味しいよ」
「あ………」
にこにこと楽しそうに姫が笑います。
その顔を見た瞬間、エドワードから慣れない言葉が口をついで出てしまいました。
「その、わ、悪い…」
「何が?」
キョトンとした姫の目に、エドワードは勇気を振り絞ります。
普通だったら、なんでもないことでも、
意地っ張りなエドワードには大変な努力が必要なのでした。
「いや、その俺、無神経だったかも、って」
「……」
「アンタにも色々あるのな、俺、その…………………ゴメン」
どうにも消え入りそうな声で発したものの慣れない様子に自分でも自覚があるのか
エドワードは真っ赤に染まった顔を上げる事ができません。
いつものエドワードからは想像も出来ない殊勝なその様子に、姫がふいに真剣な眼差しを浮かべました。
「エドワード…」
「え」
その深い色にエドワードの瞳が奪われます。
姫の真摯な表情は、わずかに苦しそうにも見えました。
「黙っていようと思ってたんだがね…」
「え、ええ?」
姫の囁くような低い声に、図らずもエドワードは心臓が跳ねるのを感じます。
テーブルを挟んで伸ばされた手を、ふいに顎にかけられ
思わず、エドワードはきつく目を瞑りました。
(うわ、何?!)
と、思う間に、長い親指が頬を刷ります。
その温かい感触にびくりと震えたその瞬間、

「米粒」
「…はい?」
見せ付けるように、視線の先に近づけられた姫の指についているのは、
まごうことなき、サフランライスのお米です。
そのまま、姫が自分の口に入れるのを、エドワードは呆然と眺めました。
「君にとても似合っていたから、取るのが忍びなかったんだよ」
「………」
やれやれとため息をつく姫の様子に
今度こそ、これ以上ないというほどエドワードの頬が真っ赤に染まります。
「………テメ、人が真面目に…!!っつうか、さっさと言えー!!!!!!」


その怒声たるや、家全体を揺らす勢いでありました。







エドワードの怒りは食事を終えても覚めやらないようでした。
怒らせたお詫びに背中を流してやろう、という姫の申し出をけんもほろろに断わり
床が抜けるかという地響きを立てながら浴場に向かったのが数分前のこと。
姫が「溺れると大変だから」と付け加えたことが火に油を注いだのかもしれません。
あの様子では、怒りの覚めやらぬまま風呂場で格闘していることでしょう。
浴槽が壊されて無ければいいが、と姫は笑みをこぼしました。
玩具のあひるを数匹、浮かべさせていた浴槽に浸かり頬を膨らませるエドワードの顔を
想像するだけで自然と口元が緩みます。
元々あひるを風呂場に持ち込んだのは姫でしたが、捨てられずに放置してあるところを
見ると、もはや突っ込みを入れる気力も無いのかもしれません。
あひるの玩具は姫のお気に入りです。

黄色いあひるは少しエドワードに似ていて、
だから好きなのだよ、といつか彼に教えてあげよう。


鉄拳の2、3発の覚悟は必要でしょうが。
姫は瞳を和ませると立ち上がり、手早く洗濯に取り掛かろうとしました。
そしてふと、気づいたようにスラックスのポケットの膨らみに瞳を落とします。
そっと上から撫でると、それは確かな硬質の感触を彼に伝えました。
「…さて、これは一体どうしたものかな…」

ポケットへと差し入れ引き抜いた、姫の白い手のひらの上には
美しく細工の施された櫛がひとつ。

それは、かの王妃からの贈り物で御座いました。





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「実はですね…」

ハボックは二つ目の訪問目的を語りだしました。






「ハクロ大臣が動いてます」

意識的に抑えられたハボックの声に、姫は瞳を細めました。
「そうか」
「徐々に活発になってきてますね。アンタの王宮不在もバレてるみたいっス」
「耳聡いことだな」
姫の脳裏に、かの重鎮の苦みの滲みた顔が浮かび上がります。勤勉実直で保守的。
しかし姫にとって大臣の印象は、事あるごとに嫌味をこめた小言を言うしか能の無い男でした。
実より花をとる、そして常識に忠実であることを美徳とする彼は、恐ろしく常識外れで型破りな姫の事を
さぞ苦々しく思っているに違いありません。

元々、白雪姫のアマゾネス修業(?)は、王妃の独断によるものです。
完全に非公式でまた破天荒であるそれを、発表するわけにはいきませんでしたので、
信用できるごく身近な側近を除いては、『病による養生』という名目で伏せているのです。
そしてその中には、大臣の名前は無いはずでした。
「まあ、バレるのは時間の問題だとは思っていたがな。御仁もいい犬を飼っているようだし」
姫はわずかに口角を上げました。
「実際上手いですよ、やっこさん用心深くてなかなか尻尾を出さないから掴むのに苦労しました。
アンタの不在を幸いにして、陰で胡散臭げな錬金術師たちを集めて渡りをつけてるみたいッス。
あんな、きな臭い連中を集めて何を企んでる事やら」
「…全く、小物は小物らしくしていたらいいものを。身の程を弁えない野心はその身を滅ぼす」
冷たく吐き捨てるようにつぶやく姫を眺め、ハボックはニヤリと笑いました。
「アンタは大丈夫なんっすか?」
「何がだ」
姫は不遜に返します。
「アンタのことだから、途方も無い野望を抱えてるのかと思って」
「生憎私は、身の丈に合う野心しか持ち合わせていない」
「へえ?参考までに聞かせて貰えます?」
珍しく謙虚な姫の物言いに、ハボックは興味を惹かれました。
「フッ愚問だな」
姫はカメラ目線できっぱりと言い切ります。
「私の野心は、しあわせな花嫁になる事だ!」
「…お願いですから、その変態思想をおおっぴらに口に出すこと止めてもらえませんか。心臓への負担が心配なんで」
「清らかな乙女の夢といったら常識だろう。これ以上に何を望むと?」
「真顔もやめてください」

ハボックは、姫の病による養生という名目もあながち嘘では無いな、ああ早く治ってくれないかな、と
思いましたが口には出しませんでした。
ここで全身火傷を負っても、労災が降りるとも思えませんでしたので。

「うるさいぞタレ目」
「タレ目関係ないでしょ」
姫の子どもじみた悪態に、ハボックは半眼でつぶやきました。
「引き続き大臣の動向を探ってくれ。面白いものが釣れるかもしれん」
ハボックは肩を竦めました。
「俺は飽くまで、ただの狩人です。あんま危ない橋を渡らせないでくださいよ?」
「ただの、ね。よく言う。綱を渡す主人も一人ではあるまい?」
姫はまっすぐにハボックを見つめると、その薄い唇の端を上げました。
その見透かすような黒い瞳に、ハボックは苦笑します。
本当にこの人は喰えない。

「俺の立場は悲しい中間管理職です。お上のお達しには逆らえませんよ」
「以外に狸だな、犬のくせにややこしいぞ」
「もう好きに呼んで下さい」
「じゃあ、ハボきゅん」
「ごめんなさい犬でいいです」

相変わらず姫を相手にしていると、ハボックは理不尽な疲労感を覚えます。
残りHPが0になる前に撤退しようとしたその時、テーブルに置いたままだったバスケットに
手を突っ込みました。
「あ、そうそう。忘れるところだった。これ預かって来たんです」
ハボックの差し出したそれは、
「…櫛?」

木製の、透かし彫りされた花模様の装飾も美しいそれは
ひとめで高級な品物と知れます。

「王妃から預かってきたんです、あんたに渡せとのことで」
「…こんなものをどうしろと?まさか毒が塗ってあるとも思えんし…」
姫はそれを受け取ると、一応鼻先に近づけてみました。
櫛は無臭であり髪用の香料の匂いさえもしない事から、未使用品だということがわかります。
どこからどう見てもただの櫛。
姫は、王妃の真意を測りきれず、溜息をつきました。
「まったく、あの人の行動は意味が解からんな」
「アンタ程じゃないですけどね」
「何か言ったか、ハボきゅん」
「ごめんなさい」


性格のすこぶる悪いご主人と涙目の犬との不毛なやり取りもなんのその。
物言わぬ櫛は、窓から差し込む陽光をわずかに反射し、白く光るばかりでした。








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